好きと嫌いの話

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まずはtogetterを参照のこと。


好き嫌いとそれの言語化についての話です。好き嫌いと言うとなんだかぼんやりとしていますが、食べ物とかの好き嫌いというよりは、小説だとかアニメだとか漫画だとか映画だとか音楽だとか
のコンテンツに対する好き嫌いの話です。「この漫画は面白い!あのアニメはクソだ!」というような主張と、それの共有に関する話です。


概ね言いたいことはtogetterにまとまっているのですが、主張のキモになっているのは「好きなものは感情で好きでいて、嫌いなものは理屈で嫌いになってほしい」という部分です。
前提として好き、嫌い、というのは理屈のない原始的な感情に根ざしていると思っています。突き詰めていくと「よくわかんないけど、好き!」「よくわかんないけど、嫌い!」に収束するのです。
しかし人間には理性がありますしコミュニケーションは感情ではなく言葉でするのですから、この好き嫌いを話題にするには当然ある程度理屈をつけて言語化する必要があるわけです。
「よくわからんけど、好き!!」「そうか!俺はよくわからんけど嫌い!!」ではただの生の感情のぶつけあいですし、会話としても楽しいものではありません。
会話に限らずソーシャルサービスやブログで作品の感想を投稿しようとするときだって、「なんか好きだった!!」ではダメですし、論理化と言語化のプロセスが必要です。


こういった言葉を介して好き嫌いの話をするときになるべく嫌いな物の話はせず、好きな物の話をするべきだという風潮があるように感じますが、どうにもこれに納得が行かないという話なのです。
好きな物はわざわざ理屈を介して言葉にせず「なんか好きだ!!」の状態のまま取っておき、嫌いな物を理屈と言葉に変換して話題とするべきなのです。
ここらへんに関してはtwitterで書いた通りです。好きという原始的な感情は理屈と言葉で表そうと四苦八苦すればするほど限定的になっていき、磨り減っていくように感じます。
無理に言葉にすることによって面白さが無理に定義づけられ、感情そのものが自分の言葉に縛られてしまう、そういうことがあります。なんか好きなんだよな、のままでとどめておく方が楽なのです。
言葉と理屈は感情を整理する手段という側面がありますから、これは自然な現象だと思っています。そしてこの性質は、嫌いな物の話をする時は有利に働きます。
嫌いな物は、きちんと考えて言語化することによって根っこにある「とにかく気に入らない!」というような負の感情を整理して、そのまま撒き散らさずに済みます。
何か嫌いな物の話をするとき、ひたすら感情をぶちまけるより言葉で整理して理性的に主張した方がいいのは、当たり前の話ですよね。


好きであることを言語にする、理由をつけるというのは闘争の開始です。理屈として言語化してしまったら、当然それが真っ向から否定される可能性も発生します。
例えば漫画に関して「○○な所が好き」「○○の雰囲気/キャラが良い」などといった理由付けをした後に、続刊でそれを完全に裏切るような要素が出てきたとします。
この時、その漫画を好きでい続けられるのでしょうか?いきなり嫌いになるなんてことはあまりないと思います。
しかし以前の自分の主張と漫画の現状が食い違っているのですから、好きである事の理由付けをし直す必要があります。矛盾を解消しなければいけなくなります。
同様に、他人のdisが付け入ってくる隙も生まれます。「○○な所が好き」と主張した時に、作品のそれにそぐわない要素が提示され「お前の主張には欠陥がある、一貫性がない」と言われたとします。
クソウザいですが、「確かにそうですね、好きな理由がなくなりました」となるわけにはいきません。直接反論するにせよ自分の中で決着をつけるにしろ、自分が好きであるための正当な
理由付けをまた自分の中で構築しなおさなければなりません。つまり好きに理屈をつけ、言語化してしまうと「好きなものを好きでい続けるための努力」が始まってしまうのです。
しかし、他人のdisや作品自体の変化といった「好きじゃなくなる要素」というのは結局根っこにある原始的で理由のない好きという感情で対処ができます。
「ごちゃごちゃうるせー!それでも俺は好きなんだよ!」で十分なのです。
いちいち最初の感情に立ち返る必要があるくらいなら、最初から言語化する必要なんて無いのでは?すればするだけ、苦労を背負い込んでいるのでは?と思います。
それでもどうしても言葉にしたい、他人にも良さを分かってもらいたいといういわゆる「布教」的な動機で理屈を捻りだして言葉を尽くして好きを表現するというのは
闘争のリスクを受け入れて自己犠牲的に作品に尽くす献身的な行為だと思います。死ぬほど性格の悪そうな表現ですが、本当にすごいと思っています。僕はとても苦手です。


皆が「好きなものは感情のまま好きでいて、嫌いなものは理屈で嫌いになる」状態ならば自分が好きな物がdisられて気分が悪くなる、というような事はありません。
好きであることに理由がないのですから、その作品が嫌いな人が理路整然とdisを展開した所で「そうなのかもしれない。けどまあ好きなものは好きなんだよね」というスタンスを貫けます。
この考え方はすごく大事だと思ってます。
理由のない好きに支えられている限り主観的な価値は揺らぎようがありませんから、他人にいくらdisられようともそんなことにいちいち不快になったり腹を立てたりするのはエネルギーの無駄です。
世界中の全ての人類がこの精神を発揮できれば、ごく理性的に嫌いな物の話をしながら誰も不快にならず、誰もが好きな物を好きでい続けられるのです。


かなり極端な話になりましたが、補足としてはこれくらいやった方がいいかなと思いました。主張の根底にはこういう論理がありましたよ、というくらいの話です。
僕自身がこの主張に沿って常に行動してる自信もそんなにあるわけではないです。好きなものを語りたい時だってありますし、嫌いなものを感情のまま嫌いだと撒き散らすこともあります。
そもそもが感情の話ですので、正しいとか正しくないとか白黒はっきりつけれる話じゃないとも思ってますが、それでも突き詰めていくと僕はこういう思想、主張に至るんだと思います。